きれいな朝焼けを見ていたら、ポエムのような文章を書いてしまった・・・
朝焼けを見ている。瞬間、朝焼けは昨日見た夕焼けとは全然違うと感じる。
東の空が薄赤く色付いている。その手前に右から左へ流れる雲がある。
薄赤色から薄ピンク色、薄紫色へと少しずつ変化していく空の色はiPhoneのカメラでは赤色が強く出て見ている色と違って見える。
次第に空全体が明るくなってきて、雲の後ろには水色の空が覗き始めている。
朝焼け色は薄い雲に映るだけだ。厚みのある雲は黒色から白色に変わってきた。
薄紫色は残った薄いわずかな薄い雲にわずかばかり残るだけかと思っていたら、街全体に漂っていた。街の空気にうっすらと色が付いたみたいに。
窓ガラス越しに見ているせいかもしれないと思う。それは昼間になればわかることだけれど、自分は昼までこの部屋にはいることはないだろう。用事があって出かける。
ずっとこの場で景色を眺めていたいような、ここに留まっていたいような気がするのに離れなくてはいけないのは、子供のときに感じた寂しさに似ている。
いつまでも遊んでいたいのに家に帰らなくてはならない寂しさ。半分横になって(上半身を高い棚に預けて)書いているから眠たいのに起こされている体の拒否反応だろうか。
そっと窓をあけみたら、カラスの鳴き声と共に薄紫色の空気が部屋の中に入ってきた。
と思ったら、太陽が街の地平線からその姿を現した。すると街は日常の色を取り戻した。
ここまで自分が見ている東の空を文章で書いているけれど、自己満足に過ぎないのは自分でも分かる。
これを書いて(読んで)喜ぶのは自分とせいぜい妻くらいなものだろう(妻もあやしい)。
素人が描写した空についての文章でほぉーとかへぇーとか思うとしたらよっぽど感受性が豊かな人か時間を持て余している人だと思う。
今から屋上に見える猫について描写しようかと思ったけれど、同じような結果になりそうだから止める。
空は黄色く染まりあがっているけれど、iPhoneは相変わらず薄赤色を検出している。
きっとカメラの方が正しくて、自分の目の方がおかしいのだろうけれど、それは事実と真実との関係のようなものだろう。真実の太陽の光は窓ガラスを通り抜けてこのノートのところまで差していて、太陽の下側には黄色く染まった小さな雲達がすーっと流れていった。
昨日「ずーっとずっとだいすきだよ」(作・絵:ハンス・ウィルヘルム)という絵本を読んだ。
教科書にも載っている絵本だから知っている人も多いかもしれない。
ここに出てくる”ぼく”は、ペットのエルフィーが死んでしまったことが悲しくてたまらないけれど、毎日愛情を伝え続けたことで、”いくらか気持ちがらく”になったという。
悲しい事実は変わらなくても、寂しい現実(真実)の捉え方は変わる。
カメラで撮った1枚の画にはその瞬間の事実しか映らないけれど、それを撮った自分自身には真実補正がかかって違って見えるだろう。
おしまい
ハンス・ウィルヘルム 作・絵 / 久山太市 訳
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